儀式を行う意味

小学生の時、同級生のお父さんの葬儀にクラスの代表として、参列したことがあります。
数年後、今度はその同級生の葬儀に参列しました。
その時にはすでに、わたし達は高校生になっていて違う学校に通っていましたが、小学生の時の連絡網で、彼が亡くなった事を聞かされました。
「葬儀とはどうしてするのだろう?」と、小学生の時のわたしは彼のお父さんの葬儀に参列しながら思っていました。
彼とは特に親しかったわけではなく、お父さんのことは名前も知りません。
なのに遺影に手を合わせるのが、不思議だったのです。
いまのわたしは、「葬儀とは死者を供養するためであるけれど、見送る側のためでもある」と、思っています。
葬儀を終えたからといって、誰かを失った悲しみが、一気に消えてなくなるわけではありません。
悲しみは時間をかけて癒していくしかないのでしょう。
子どもと旦那さん、どちらの葬儀でも泣き崩れていた彼のお母さんの姿を思い出すと、悲しみが癒えるというのは幻想で、本当は一生消えないんじゃないか。
とも、考えてしまいます。
でもだからこそ、区切りが必要なのではないでしょうか。
これからを生きる人間が、すこしでも早く大事な人の死を受け入れて、悲しみながらでもゆっくりと前を向いて歩いていけるように、葬儀はするのだと思います。

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別れは、少しでも楽しく

この世の中には、2種類の別れがあります。
「また、会おうね。」といったもう一度再開できる可能性のある別れ方と、
人が亡くなったことで二度とその人と会うことのできない別れの2種類です。
さらに後者に関しては、別れの儀式として葬儀が行われるのが普通になっています。
そして葬儀は、その性質上悲しいイメージが付き纏うのではないでしょか。
ですが、本当に最後のお別れにそんな別れ方をするべきなのでしょうか。
最後だからこそ悲しいもので終わらせるより少しでもいい思い出でお別れできたほうが絶対にいいはずです。
そこで私が何を言いたいのかというと葬儀をもっと明るい方向で行うべきだということです。
具体的にどうするかは、個人によってやり方が変わってくるとは思いますが例えば、明るめの歌を選んで流してみたり、パーティーのように行ってみたり、会社の忘年会のようにドンチャン騒ぎみたに行うのも一つの手だと思います。
もちろん、亡くなった方の供養や葬式・葬儀のマーナーがという話にもなるとは思います。
ですが、その人とは二度と顔を見ることができないのですから本当の最後くらいは、少しでも楽しい思い出でお別れするのもよいのではないでしょうか。